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2008年2月15日オープン
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土曜日に宋家の三姉妹と言う映画を見た。
皆さんは宋家の三姉妹という人達を知っているだろうか?
おそらく、ほとんどの人達は知らないだろう。僕も全く知らなかった。
中国の共産党の革命の陰に隠れてしまったが、中国では有名な姉妹だ。
長女は孔子の76世代目の子孫だというが、ほんとかどうか分からない。
この女性に関しては特筆、言うことはない。
孔という大金持ちに嫁いだのと、抗日戦争の間だけ活躍したくらいだろうか。
次に次女だが、この人は特別に取り上げる価値のある女性だ!!
辛亥革命を成功させた、あの孫文と結婚して波乱の生涯を生きた女性で、常に祖国のことを憂い心配して生きた女性で毛沢東よりも尊敬する中国人だ。
そしてなんと、国民党軍と中国共産党の内戦の後に中華人民政府の副首席になり、晩年は中国共産党政府の名誉主席になった女傑でもある。
三女はあの蒋介石の妻になった女性だ。
世界では一人は富を愛し一人は権力を愛し一人は祖国を愛したといわれた。中国では有名な三姉妹だ、その宋家の三姉妹を主人公にしたのがこの映画だ。
メイベル・チャンというイギリス領香港、生まれの女性監督の作品でアメリカで監督の勉強をしてこの作品を作った。女性監督ならではの視点で描かれていて実にすばらしかった。それにデザイナーの衣装が素晴らしい豪華な衣装達のオンパレードも見事だった。
そして、喜多郎とランディ・ミラーの音楽も素晴らしかった、また4000点ものこの映画のためにためだけに作られたワダ・エミの衣装もすばらしかった。
さて、ストーリィーだが最初に言って置くがこの三姉妹は露齢(アイレイ)、慶齢(ケイレイ)、美齢(ビレイ)の仲の良い宋家の三姉妹の激動の物語だ、長女の露齢(アイレイ)は孔子の直系の子孫を名乗る孔祥煕という財閥の御曹司と結婚しただけで、抗日戦の時と蔣介石が飛行場に降りられなくて困った時に南京中の自動車を集めて着陸灯がわりにした以外にはそれということのない女性だからそれくらいにしておこう、もう一つアメリカに移り住んだあとで1950年にニクソンが上院議員選挙に出た時に100万ドルの選挙資金を寄付して、カルフォルニアの華僑の票をとりまとめてニクソンを助けて有名になったが、祖国の中国をはなれた離れた後の話だからこれくらいにしておこう。
次女はあの辛亥革命を成功させて清朝の中国支配を終わらせて中国国民を解放したあの孫文の妻になった女性でこの映画のメインキャストでこの女性は孫文の中国の全勢力が一致団結して中国を治めなければならないという、孫文の遺言に従って中国共産党に対する国民党軍の弾圧に対して蒋介石を糾弾した慶齢という女性を中心にした映画と言っても過言ではないだろう。
彼女は中国共産党の副首席(スケベ毛沢東の次に偉い人)になり晩年は中国共産党の名誉首席になり、長年の苦労が報われた。
三女は蒋介石の妻になった女性で国民党軍が中国共産党軍に負けて中国を離れて台湾に逃げる時に蒋介石に従って台湾に逃げて、蒋介石が死んだ後はアメリカに移り住んでくらしている。1998年に101歳になった今も美齢は生きているそうだ。
一人は孫文の妻になり、もう一人は蒋介石の妻になっているのだから中国現代史もこのブログにはちりばめさせてもらう。
だいぶ前置きが長くなったから、今度こそストーリーに入らせてもらうがまずチャーリー宋がどうやって財をなすことになったか、そこからか書き起こすことにしよう。
1827年頃にチャーリー宋はアメリカに留学してクリスチャンになるそして、帰国後に聖書の印刷で財産を作った。
そして、1890年に倪桂珍と結婚して名家の仲間入りをはたす。また、革命思想の信奉者で孫文の親友でもあった。そして、91年に長女、露齢が生まれ93年に慶齢が生まれる。94年に日清戦争が起こり97年に三女、美齢が生まれる。
チャーリ宋は自分の経験に鑑みて自分の子供達をアメリカに留学させることにした。まず露齢賀1904年に留学して1907年に慶齢と美齢がアメリカに留学した。
そして、1911年に辛亥革命が起こり12年には清朝が滅亡して中華民国が成立して孫文が臨時大総統に就任した。しかし、1913年に孫文は袁世凱に追われて日本に亡命した。同じ年に露齢は孔子の75代目の子孫を名乗る孔家の御曹司と結婚した。その後の秘書としてアメリカから帰国した慶齢が秘書になった。
そして、1915年に慶齢は孫文と親の反対を押し切って結婚した。1916年に袁世凱の死亡によって孫文と慶齢は中国に帰国した。言いわすれたが孫文と慶齢は京都で梅屋庄吉(日活創業者の一人)の・トクの援助があった。同じ京都府民として京都府の人間があの孫文や周恩来首相とかを援助していたと思うと誇らしい、いずれ敵、味方に別れて戦うことに日本人が中国の国父といわれる孫文と宋慶齢の結婚式に参加して祝福しているところは微笑ましかった。
それから、中国に帰国した孫文は広東に臨時政府を樹立したが、国内の政情は不安定で軍閥によるクーデターが起こり、孫文は若き日の蒋介石に助けられたが慶齢は逃亡中に流産してしまい
二度と子供の生めない体になってしまった。
軍閥に頼らない近代的な軍隊を作ることの必要性を感じた孫文は黄埔軍官学校を設立しその校長に蒋介石を据えるのだった。露齢は美齢に「これで蒋介石は権力者に登りつめる校長に逆らうものはいない」といったがそれは間違いだった。
この黄埔軍官学校の卒業生の中には中国共産党の幹部になって蒋介石の国民党軍と凄惨な6回の凄絶な包囲討伐戦や長征やこれまた凄絶な国共内戦に中国共産党軍の指揮をして国民党軍を台湾に追い払ってしまうのだから、中国共産党と国民党軍が提携したのは第一次国共合作と抗日戦の時だけで、あとは敵対を続けた。この黄埔軍官学校の設立に貢献したのが孔家と宋家の経済力と富の力だった。
1925年に孫文がわずか58歳の若さで死んでしまうと、1926年に国民党軍による北部の軍閥を倒すための北伐が開始されると蒋介石が総司令に就任した。1927年上海クーデターで国民党に共産党員が殺されると中国共産党と国民党は仲たがいしてしまった。以後1937年まで両者が歩み寄ることはなかった。この年に美齢は蒋介石と30歳で結婚した。
1927年に蒋介石と慶齢は中国共産党員に対しての弾圧をめぐって孫文の中国の全勢力との共闘という、孫文の遺志に反していると、激しく対立した時に美齢が力の限り慶齢を守った。
その年に慶齢は中国を離れてモスクワに行って中国共産党に対する援助を願い出た。ソ連からは
コミンテルンの顧問が派遣された。まあ、あまり中国共産党の革命の役にはたたなかったがこれがソ連が中国共産党にした唯一の援助だった。
国民党政権が誕生すると、凄絶な6回に及ぶ包囲討伐戦が始まった。そして中国共産党軍は中国各地にソビエト地区を作って国民党軍と戦った特に国民党軍が目の敵にしたのが毛沢東の指揮する井岡山に根拠地を作っている。共産党軍だった。
1929年には孫文の国葬の出席のために帰国したが、またベルリンに帰ってしまった。
あまり関係ないのだが、毛沢東の指揮する井岡山の共産党軍は5回の反包囲討伐戦には勝利したものの6回目の反包囲討伐戦には負けて1934年に世界的に有名な長征を始めて2年の間中国の奥地を2年もさまよって中国人が今まで知らなかった色々な少数民族がいるのを始めて知って中国共産党の政策も大きく変更された。
この長征ではつり橋の板を国民党軍に外されて決死隊を組織して戦闘をして渡ることもあったり、中国人に反感を持つ少数民族に丈の高い草の生えている、湿原で攻撃されて仕方なく戦闘をすることもあった。なんとか西の方の安西という軍閥の支配して地帯になんとかたどりついた。
その1936年にいつまでたっても中国共産党に対する攻撃ばかり繰り返して侵略してきた日本軍に対して戦わない蒋介石に腹を立てた張学良に捕まる西安事件が起こった。
その時に夫の蒋介石に抗日戦を共に中国共産党と戦うことを約束させて蒋介石を救ったのが美齢だった。
最初に日本軍が連戦連勝というのは当たり前のことだ、蒋介石の国民党軍が必死になって共産党軍と戦って日本軍と真剣に戦わなかったのだから、抗日戦が始まって国民党と共産党が協力して1937年に中日戦争が始まると、日本軍はたちまち泥沼にはまり込んでしまった。
共産党軍は日本軍に八路軍と言って恐れられたそうだ。まあ、あのバンザイ突撃とアメリカ軍に言われた日本軍の戦い方と国民党軍との熾烈な戦いで鍛え上げられたゲリラ戦を得意として孫子の兵法を基本として緻密な作戦の基にたたかう共産党軍では、まるで勝負にならない!!
1945年に日本が敗戦すると国民党政府は僕の読んだ毛沢東と言う本によると、共産党軍に熟れて摘み取られるのを待つ果実のようだったそうだ。
この抗日戦の時の時だけに戦争孤児の救援のために三姉妹は行動を共にした戦地を慰問する”宋家の三姉妹,,は”国共合作、、と抗日戦の象徴だった。
三姉妹が公式の場で会うのは10年ぶり,こうして3人でひとときの時間を共有しつつ、密かに恐れていた、この3人の時にいつしか別れの時が訪れるのをだと。
この時が宋家の三姉妹が同じ道を歩んだのはこれが最後となった。露齢は1948年ニューヨークに移住し、国共合作が日本軍が敗戦した後に崩壊して1946年に国共内戦に突入して1949年に国民党軍が中国共産党軍に中国を追い出され台湾に移った時に蒋介石と共に美齢も台湾に逃げ、蒋介石の死後にニューヨークに住み。
1931年に母の死後に中国に住んで最後まで中国に残ったのは慶齢だけだった。これで壮大なメロドラマ的な映画もこれで終わりだ。
中国現代史を知っている僕にはじつに面白かった。中国現代史を知っている、つもりだったが宋家の三姉妹のことはまったく知らなかった。おそらくブルジョワ嫌いの中国共産党に存在をけされたのだろう。
中国近代史と現在史をちりばめてこのブログを書かしてもらったが。ほとんどの人は中国近代、現在史をしらないだろうし、慶齢は孫文と結婚しているし、美齢は蒋介石と結婚しているのだからこの中国近代、現在史を外すとストーリーがわからなかっただろうし、あえて書かしてもらった。
この作品はスケールの大きいすばらしい映画だった。
 
 
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