これは、東行庵で幕末の風雲児、高杉晋作さんの墓のある。菩提寺である。
東行とは高杉晋作さんが親に無理やり結婚させられたのに腹を立てて出家した時の号である。
その字をとって東行庵と呼ばれている。
これが高杉晋作さんの墓と行く時に渡る石橋だ。この橋を渡って高杉晋作さんの側室
だったおうのさんの墓に行ける。
これが高杉晋作さんの墓と梅処尼(おうのさんのこと)と奇兵隊および諸隊士
(幕末時代に長州藩では奇兵隊以外にも力士隊などの色々な隊が活躍した) 顕彰墓地と
東行庵と東行記念館とを示す看板だ。
これは東行楓とも呼ばれてる楓だ。樹齢300年だから高杉晋作さんが葬られたときには、
もう境内に生えていたことになる。
これが高杉晋作さんの墓である。自分を飾らない人の墓らしく極めて質素なものだ、
看板が立ってていなければ誰の墓だか分らない実に質素な墓だ。
これが高杉晋作さんの墓のアップだ、いつ来ても花を欠かさず、よく高杉晋作さんが
敬われているのが良くわかる。
奇兵隊および諸隊士の顕彰墓地と石造聖観音への案内の看板である。
高杉晋作さんと共に戦った隊士の墓である。正名団(これでまさなだんと呼ぶ)が幕末の長州藩の
吉田村にこういう隊があって共に小倉戦争(幕末に小倉にある、幕府の拠点を叩く作戦のことをこう呼ぶ)
14歳で怖かっただろうに勇敢に戦って戦死したらしい。
これが梅処尼(高杉晋作さんの側室おうのさん)の墓である。もと遊女だっただけに、
余り敬われてはいないようだ。花が高杉晋作とは明らかに少ない。
これが梅処尼(これで、ばいしょにと読む)の墓の看板である。
上に書いてある、この看板がなければ気づかずに通過してしまうような小さい、何の
へんてつもない小さな墓である。
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