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2008年2月15日オープン
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功山寺に咲いていた藤の花が綺麗だから撮ってみた。



長府市の市の文化財らしい興味がある人は、看板を拡大して撮ってあるのでゆっくり読んで欲しい。
僕はもうキリスト教徒なので輪蔵と言われてもピント来ない。



この上の写真は高杉晋作維新回天の像である。長州藩が幕府派に牛耳られた時に維新派は、
いわゆる賊論派と言われた幕府派を排除して幕府と戦うか、それとも幕府に降伏するかの会議を
功山寺で開いた。大勢は幕府に降伏するというものであったが、高杉晋作さんは、
皆が戦かわないのなら俺独りでも行くと言い、ほかの諸隊も維新派も皆が幕府派を排除して
維新派が藩の実権を握り幕府と戦うと決めて幕府派を排除して幕府に勝利した。
このことを記念してこの像は建てられた。



川岸に鴨が憩ってたのが可愛いから撮ってみた。
家族ごとにくつろいでいるのだろうか、実にほほえましい光景だ。



ここでも鴨が泳いだりくつろいだりしている。向かい側の岸ではおじさんが立ち止まって鳥に餌を
あげている。この微笑ましいシーンを残したくてシャッターを押した。

 
帰りに、通りの横の川に綺麗な錦鯉が川を泳いでいるので撮ってみた。
功山寺の山門を出てずっと海のほうに降りていく途中の川でなんと言う名前の川かもう忘れてしまった。


これは関門海峡を航行する船である。この船は積荷からコンテナ船らしい、コンテナ船の船首方向の
白い船は何の船か分らない、余りにも小さすぎる。このコンテナ船だって遠いところ、
小さく航行しているのを、デジカメのアップ機能の限界までアップしてかろうじて見える写真に
しているのだから焦点から、外れたらもう何の船かまでは分らない。
海面に、少し白波が立っているのが見えるだろう。写真では動かないから分らないが、
実際はものすごい勢いで潮流が片方の端に向かって流れている。
あの壇ノ浦の戦いもこの近くで行われた。
壇ノ浦とは、平安時代の昔の呼び名で幕末の時は馬関海峡と呼ばれていた、そして現在は
関門海峡と呼ばれている。関門海峡には壇ノ浦の戦いの古戦場の碑があるそうだが、
ぼくは平家なんか滅んで当たり前だと思う人間だから、わざわざバスに乗って碑を
見にはいかなかった。



同じコンテナ船が近づいてきたから、撮って見た。今度は大きくなって、はっきりとコンテナ船で
あることが分るだろう船尾はどんなにワイドにしても入らなかった。



これが長州藩が、アメリカ・フランス・イギリス・ロシアの4カ国連合艦隊と戦った時に実際に
長州藩が使った大砲である。なぜ4カ国連合艦隊と戦う羽目になったかは、幕末関係の情報を、
ネットで調べてもらうとして、原因は幕末に幕府が全国に外国船打ち払い令を出して長州藩が
その命令に律儀に従って外国船を砲撃したことによる。これに激高して4カ国が討伐軍を
送ってきた。
結論から言わしてもらうと、長州藩のぼろ負けである。長州藩の大砲が全く役に立たなかった
ことが敗戦の原因である、大砲を撃っても敵船に到達せずに、4カ国連合艦隊の艦砲射撃で
砲台を砲撃されてあえなく敗戦した。
ここにある大砲は、4カ国連合艦隊が戦勝記念に本国に持ち帰ったものを後に返還された
本物の大砲である。



これがその大砲のアップである。砲口も小さくてとても実戦向きではないことが分るだろう。
射程距離も短かった。表面には、模様も描かれて大砲と言うよりかは美術品だ。
そりゃ4カ国連合艦隊の将兵も喜んで本国に持って帰ったことだろう。



下関から釜山の間にある島の写真である。なんという島であるかは海図を持っていないから
分らない。見た感じでは、以外に大きく見えたが実際に島を一周でもして見たらすぐに
一周できてしまうだろうが。
















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