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2008年2月15日オープン
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7月に祇園祭の後祭りの山鉾巡行が行われたが、今年から49年ぶりに先祭りと
後祭りで行われたわけだが、皆さんは山や鉾の正面や側面を飾る前垂れや、
側面を飾る敷物がどこから来たか知っているだろうか?
NHKの特集で僕も初めて知ったが、驚くべき内容だったのでこれを、
これから紹介したいと思う。

まず最初に紹介されたのは魚鉾だった。
魚鉾を保存している保存会の人々は昔から、自分たちの鉾を飾る敷物が
どこから来たか知りたがっていたが遂に外務省を通じて調査依頼をした。

BBという頭文字のマークからベルギーに昔あった公国で17世紀から18世紀に
作られていたことが分かったが、これはベルギーのブリュッセルで
調べられた、昔はオランダとベルギーは
1つの国だった期間もあったから
調べられるのである。
そのタペストリーは自信を持って作られる1級品だということがわかった。
またこういうタペストリーはその
1枚だけ作られるということはなく連作
としてつくられるのであって、他にもタペストリーが存在するということ
も分かった。

内容はトロイア戦争(と言っても、ほとんどの人が分からないだろうから
分かりやすく説明すると、有名なトロイの木馬を利用した戦争と言えば
分かる人も多いだろう。ギリシャ軍が、いくら攻めてもトロイアに
勝つことができないので奇策を考え出した。大きな木馬を町の外に置いて、
いかにもギリシャ軍が撤退したかのように見せかけてトロイア人が勝った
ぞと喜んで木馬を町に入れたが、実はその木馬のなかに、
たくさん兵士が隠れていて真夜中に兵士達が木馬から出て都市の門を
開けてギリシャ軍が勝利した戦争である。
日本ではトロイと呼んでいるがヨーロッパではトロイアと呼ばれている。)
この場面が魚鉾のタペストリーに描かれている。増上寺のタペストリー
だけは仏さんの絵柄だが。

江戸時代の鎖国期間中にどうしてこれらの敷物が日本に入ってきたの
かも謎だし、しかも祇園祭という町衆の祭りを飾る山や鉾に使われている
のかということも謎だった。

その謎もきれいに明らかにされていた。このタペストリー(ヨーロッパ
ではタペストリーと言うから今後は全部タペストリー呼ぶ)はオランダ人
が日本に持ち込んだのである。

鎖国期間中にオランダ(本当はネーデルランドと呼びべきだ)は
ヨーロッパ諸国の中で唯一、日本と交易できるのだから、オランダは
将軍に高価な贈り物をしなければならないその贈り物がこのタペストリー
だったのである。

また何故、将軍家所有のタペストリーが祇園祭の鉾に前垂れや側面を飾る
タペストリーとなったのか、また連作なら他のタペストリーは日本の
何処に
あるのかと言う謎もときあかされていた。


まず1枚は東京の増上寺の仏さんの後ろを飾っていたことが明治5年に
増上寺を訪れた外国人の写真に撮られていたが、その後に東京を襲った
火事で燃えてしまった。

もう1枚は石川県にある加賀100万石、前田家が徳川家と婚姻により縁続き
になった関係で金沢にある。

もう1枚は関係は示されなかったが長野県にある。そしてもう1枚は
奈良県にある。

そしてなぜ、京都の祇園祭の鉾にタペストリーが使われているかと言うと。
京都の豪商
(残念ながらその家の名前は忘れてしまった。)が徳川家に
2000両
(現在の価格に直せば4000万になる)を貸し付けていたから
代わりに将軍家から渡されたものであることが分かった。

三井家(もちろん今の三井財閥の前身)は両替商と呉服屋として
繁盛していたわけだがその豪商から呉服を買い入れた。
その豪商は今の松坂屋の前身である。
江戸時代の京都にはそんな豪商がいっぱい住んでいたのである。
しかも魚鉾のタペストリーは特に流転している。今ある魚鉾の
タペストリーは
実際のタペストリーの半分でしかない。
もう半分は将軍家からもらった例の豪商が、
今の滋賀県の大津の人に
2000両で売った。そのために現在ある魚鉾のタペストリー
は途中で
縫い合わせた状態になっている。魚鉾これで魚鉾のストーリーはこれで
終わりである。

つぎは月鉾の物語である。少し横に逸れるが世界中のタペストリーの
専門家はずっと、
17世紀から18世紀の絵画に描かれていた8角形の柄の
タペストリーを探していた。
どんなに探しても、見つけられないので、こんな柄のタペストリーは
本当にはないもので昔の画家が想像で描いたもので、こんな柄の
タペストリーは現実には存在しないのではないかと、思われてきた。

しかし、メトロポリタン美術館のタペストリーの専門家が祇園祭に
来て写真を撮って帰ったがその中に、世界中のタペストリーの専門家が
長年に渡って探していた
8角形のタペストリーがあるのが分かって
驚いた、それが月鉾を飾るタペストリーだった。

NHKの番組では、ヨーロッパではタペストリーは日々の生活で敷物
として使われて(日本ではタペストリーと言う名前より絨毯と
言ったほう分かりやすいだろうが)
擦り切れたら捨てられるが、日本ではタペストリーは美術品として
扱われるので(特に山や鉾のタペストリーは各町内で大事に
受け継がれる)から今も月鉾で今も大事に受け継がれるのだろうと
いっていた。
月鉾に来たのは魚鉾と同じ理由だろう。これで月鉾のストーリーは
これで終わりである。

そして最後は籤とらずの常に祇園祭の先頭をいく長刀鉾の
タペストリーの物語である。
このタペストリーは世界にたったひとつの珍しいタペストリーだ、
しかも普通のタペストリーは赤や黄色や青などの多色で
織られているのに長刀鉾のタペストリーは白と黒の
2色だけで
織られている。

染色の専門家が言っていたがこの織物は赤の染料が手に入らない
遊牧民が作ったのではないかと言っていた。
昔から赤の染料は高価だったらしい。

それに長刀鉾のタペストリーは普通のタペストリーのように
手触りが滑らかではなくて、ごわごわしているらしい、
そこで長刀鉾のタペストリーのことを調べるために少しだけ毛を
採取して年代分析と
DNA鑑定をすることにした。

その結果は年代は12世紀から13世紀に作られたことがわかった。
そして何の毛でつくられているかの調査だが
DNAの調査だが
驚くべきことが分かった。
データベースによると、ひとつは牛の毛、これだけでは生息範囲が
広すぎて分からないが、もうひとつはチベットカモシカの毛で
あることがわかった。

この発見で製作場所が限られた。チベットカモシカはチベットから
中国北西部にしか生息していないからだ。

長刀鉾のタペストリーを見ると、梅の木が中心にあるから
中国文化圏でつくられたことがわかる。それに長刀鉾の
タペストリーの外側に織られている模様を調べるとアラビア語の
書体のひとつでイスラム教の神である、アラーと書かれているのが
わかった。

これで何かアラビアの感じがしてきたが、そこで12世紀から13世紀
という年代を考え合わせると、そこにモンゴル帝国という存在が
浮かび上がってくる。

モンゴル帝国時代の中国にイスラム教徒がたくさん住んでいたことは、
マルコポーロの東方見聞録に書かれているのがわかっている。

そこでこういう推測も出てくる。中国では昔は作っていなかったが、
タペストリー製作の盛んな中近東からイスラム教徒のタペストリー
製作の専門家が中国北西部に移住してタペストリーの技術が
モンゴル帝国の時代に中国北西部に、もたらされてタペストリーが
作られたがモンゴル帝国の滅亡と共にこのタペストリーの担い手が
いなくなったと言う推測も可能ではないかと言っていた。
これで長刀鉾のタペストリーのストーリーも終わりである。

これで今回の鉾を飾るタペストリーのストーリーは、
全て終わりである。
このNHKスペシャルではたった3つの鉾のタペストリーを紹介して
いたが、ほかの鉾や山のタペストリーもそれぞれ色々とストーリーが
あるのだろう。

若いときに京都市美術館で祇園祭の鉾のタペストリー展示してあって、
なぜ祇園祭りの鉾を飾るのが
14世紀のタペストリーなのだろうか疑問
に思ったが、
NHKスペシャルを見てやっと分かった、ヨーロッパから、
中国からほかにも色々な国からきているのだろう。
他の国では美術館に飾られているタペストリーが祇園祭では道路を
巡行しているのだから祇園祭が、動く美術館と言われるのが分かる。

本当にアメリカ軍が第2次世界大戦で学者の要求を受けて、京都と
奈良を爆撃しなくて良かったと思う。もし京都を爆撃していたら、
このタペストリーは永遠に失われただろうし、奈良も東大寺を含めて
木造建築物は失われただろう。

なんと言ってもこのタペストリーは世界的にも貴重なもので全人類の
大事な遺産と言うべき未来の人々へ大切に引き継いでいかなければ
ならない。

 

 





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