忍者ブログ
2008年2月15日オープン
[105] [104] [103] [102] [101] [100] [99] [98] [97] [96] [95]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

4次川中島の戦いの第4次川中島の合戦は

1561年に行われた、別名は八幡原の戦いとも呼ばれる。

1次から第5次の戦いの中で最も大規模な合戦となって

多くの死傷者が出た。

 

川中島の合戦と言えばこの第4次川中島の合戦と言われるほど

有名な戦いだが、前提条件となる外交情勢については

確認されるが実際の戦いの模様は、甲陽軍鑑などの

江戸時代の軍記物語りでしか確認することしか出来ない。

そこで江戸時代の軍記物語元に巷間に知られている

合戦の模様を述べるしかない。

但し歴史的な資料が存在しないので、実際の経過は

実際のところ謎である。

 

しかしながら『勝山記』や上杉家の感状や近衛前久宛文書などの、

4次川中島の戦いを比定する可能性が高い資料が

存在することや1561年を契機に長尾家と武田家の

関係が変わったところからこの年にこの地で激戦が

行われていたことは間違いない。

合戦の背景だが1552年関東管領の上杉憲政は北条氏康との

戦いに負けて、越後国に逃れて長尾景虎さんに上杉の家督と

関東管領の職を長尾景虎さんに譲渡を申し入れていた。

 

1559年に長尾景虎さんは関東管領職就任の許しを得るために

2度目の上洛を果たしていた。

長尾景虎さんは将軍・足利義輝に拝謁して関東管領職就任を

正式に許された。(晴信とはえらい違いだ!!)

晴信は隣の国に侵攻して力で信濃の国の併合を進め、

京の将軍から御教書を持って和睦の使者が来て、

長尾景虎さんと和睦せよと言った時に、和睦の条件として

図々しいことに信濃守護職を要求してやっとこさ

手に入れることができることができたのに比べて、

上杉謙信さん(まだ、長尾景虎と言う名であったがいずれ

上杉謙信と言う名前に変わるのだからもうそろそろ

こう書いてもいいだろう)の方は関東管領の方から

上杉家の家督と関東管領職を譲渡してくれる、

やはり上杉謙信さんの人徳と言う所だろう。

 

やはり人間は正直に生きるのが一番、やはり義のために

生きてきて無駄とも思える、関東の戦いに自ら先頭に立って

毎年・春から戦闘三昧で休む間も少なく戦いつづけて、

本当に関の事を思っていることを思っての戦いを続けてきたのが

誰でも分かるから関東管領職を譲る気になるのだろう。

 

やはり上杉謙信さんは劉備玄徳で武田晴信は曹操だ。

それはさておき、大義名分を得た長尾景虎さんは

関東での戦いに出陣、長尾景虎さん軍勢には関東の諸大名が

付き従って10万人もの軍勢に膨れ上がったそうだ。

北条氏康は戦いを避け小田原城に籠城した。

 

1561年の3月に長尾景虎さんは小田原城を包囲したが、

さすがに天下の名城と言われる小田原城だけあって、

さすがの長尾景虎さんでも守りが堅く攻めあぐねた。

 

北条氏康は武田信玄(1559年に出家して信玄と改名

したそうだ。これからは信玄と呼び捨てにする。)に援助を求めた。

信玄は北信濃に侵攻した。

そして海津城(長野県長野市松代町)を築き

長尾景虎さんの背後を脅かした。

関東諸将の足並みの乱れで関東諸将が、勝手に一部の兵を

撤兵させるのに及んで小田原城の包囲を解いた。

長尾景虎さんは相模の国・鶴岡八幡宮で上杉家家督相続と

関東管領就任の儀式を行い、名を上杉政虎と改めて

越後国に引き上げた。

 

 関東を目指す、上杉政虎さんにとって背後の信濃の国と

越後国との国境を固めるのは急務であった。

そのためにも海津城を攻略して、武田軍を叩くことが先決だった。

1561年の8月に越後国を出発した長尾景虎さん改め

上杉政虎さんは、善光寺を経由して妻女山に布陣した。

 

下に第4次川中島の戦いの関連地図を

載せておいたので参考にして欲しい。

 


甲陽軍鑑などの軍記物語しか、第4次川中島の合戦の

記録がないので甲陽軍鑑に従って、合戦の記述をするが

何分にも平和な江戸時代に書かれた書物だから、

もしかしたら誇張されたりしていることがあることを

先にお断りしておく。

 

まず上杉政虎さんは8月15日に善光寺に着陣した。

荷駄隊と兵5000人を善光寺に残し、

兵13000人を率いて更に南下を続けて

犀川・千曲川を渡り長野盆地の南側にあたる妻女山に着陣した。

妻女山は川中島より更に南にあり、川中島の東にある

海津城に相対する位置にある。

 

信玄は24日に妻女山とは千曲川を挟んで対峙する

塩田城に入ったといわれている。

これにより塩田城と海津城のふたつの城を包囲する布陣になった。

その睨み合いになり、武田軍は戦線硬直を避けるために

海津城に入った。

 

上杉政虎さんの強さを知る信玄は慎重であって、

上杉軍撃滅の作戦立案を山本勘助と馬場信房に命じた。

山本勘助と馬場信房は大規模な兵を二手に分ける、

別働隊の編成を献策した。

この別動隊が妻女山の上杉軍を攻撃し、上杉軍は

勝っても負けて妻女山を下りてくるから、これを平野部で

本隊が待ち受け別動隊挟撃して、撃滅するという作戦だった。

これを啄木鳥が虫に潜む木を突いて虫が驚いて出てきたところを

啄むところに似ているところから啄木鳥戦法と呼ばれた。

 

99日の深夜に高坂昌信と馬場信房が率いる1200人の

別動隊が妻女山を登って行った。

信玄率いる本隊は上野原に鶴翼の陣を布いた。

しかし上杉政虎さんは、海津城からの炊煙が

いつになく多いことからこの作戦を察知し、

上杉政虎さんは静かにして物音をさせないように命令して

夜陰に乗じて密かに、妻女山を下り、雨宮の渡しから

対岸に千曲川の対岸に渡った。

上杉政虎さんは甘粕景持・村上義清・高梨政頼を

渡河地点に兵1000名を置いて武田軍の別動隊に備えさせた。

その間に上杉政虎さんは上野原に布陣した。

 

10日の午前8時頃に、霧が晴れた時に

いるはずのない対岸に布陣する上杉政虎さんの軍勢を見て、

信玄率いる武田軍は愕然とした。

上杉政虎さんは猛将・柿崎景家を先頭に車掛かり

(波状攻撃(間をずらして攻撃をすること)を仕掛ける戦法)で

襲いかかった。

 

武田軍は完全に裏をかかれた形になり、鶴翼の陣(鶴が翼を

広げたように布陣し敵部隊を囲むように布陣して敵部隊を

包み込む陣形)をとったが、信玄の弟の武田信繁・山本勘助・

諸角虎定・初鹿野忠次などが討死するなど劣勢であったと言われる。

 

乱戦の中で手薄になった武田の本陣に上杉政虎さんが

切り込みをかけた。

『甲陽軍鑑』では、白手ぬぐいを頭に巻き、

放生月毛に跨がり名刀、小豆長光を振り上げた騎馬武者が

床几(しょうぎ)に座った家信玄に三大刀にわたり

切立てて、信玄は床几から立ち上がり軍配で受け

御中間頭の原大隈の守が騎馬武者の馬の脚を槍で刺すと

騎馬武者はその場を立ち去り、後になって

上杉政虎さんと知ったという。

 

上杉政虎さんが出家して謙信と名乗るは9年後の

1570年のことである。

 

上杉政虎さんと信玄の一騎打ちだが確実な資料からは

確認されない。

なお、上杉家側の資料である『北越太平記』(『北越軍談』)には

一騎打ちが行われたのが御幣川の家中であり上杉政虎さん

信玄とも騎馬であり信玄は軍配ではなく刀であり

手を負傷して退いたと書かれている。

 

上杉政虎さんに出し抜かれて、もぬけの殻の妻女山を攻撃した

高坂昌信・馬場信房が率いる武田の別働隊は八幡原に急行した。

上杉軍のしんがりの甘粕景持を蹴散らして、午前10時頃に

八幡原に到着した。

予定よりかなり遅くなったが武田の本隊は上杉軍相手に

持ちこたえていた。

武田の別動隊の到着により上杉軍は挟撃されるようになり、

形勢不利となった上杉政虎さんは兵を引き犀川を渡河し、

善光寺に敗走した、信玄も進撃をやめ八幡原に

引き上げたことでこの合戦は終わった。

 

上杉軍は川中島北の善光寺に置いていた兵1000名と

合流して越後の国に引き上げた。

この戦による死者は上杉軍で3000余名、

武田軍は4000余名と伝えられ互いに多くの死者が出た激戦となった。

 

信玄は八幡原で勝鬨を上げさせて引き上げ、

上杉政虎さんは首実検を行って引き上げた。

 

これが4次川中島の戦いの全貌である。

最も川中島の戦いのうちの八幡原の戦いは軍記物語に

頼らないといけないところは不正確だが。

 

 

つづく

PR
カレンダー
04 2024/05 06
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
バーコード
カウンター
Powered by ニンジャブログ  Designed by ゆきぱんだ
Copyright © 小中の航海日記 All Rights Reserved
忍者ブログ / [PR]