第2次川中島の戦いの別名は犀川の戦いとも呼ばれる。
1555年に行われた、長尾景虎さんと晴信は
200余日に及ぶ長期において対陣した。
前年の1554年に南信濃の伊奈郡を制圧した晴信は
後北条氏と今川氏との間で同盟をむすんだ。
そして北関東で長尾景虎さんと対立する北条氏と共同で
長尾景虎さんの長尾氏と対決していく。
その上で長尾家の有力家臣の北条高広に反乱を起こさせた。
長尾景虎さんは北条高広を倒したが晴信の汚い調略に
長尾景虎さんはさぞかし怒っただろう。
1554年に中部信濃で小笠原氏と共に武田方に抵抗していた
二木氏が小笠原氏逃亡後に赦免を求めて降伏した。
1555年に信濃の国善光寺の国衆・栗田永寿が武田方に寝返り、
長野盆地の南半分が、竹田氏の勢力下に置かれ善光寺以北の
豪族達が圧迫される事態に陥った。
晴信は3月、長尾景虎さんは4月に善光寺奪回のために
長野盆地の北部に出陣した。栗田永寿と武田の援軍3000名は
栗田氏の旭山城(長野県長野市)に籠城した。
長尾景虎さんは旭山城に封じ込めるために前進拠点として
葛山城(長野県長野市)を築いた。
晴信は旭山城の後詰として川中島へと出陣し、犀川を挟んで両軍は対峙した。
7月19日に長尾景虎さんは犀川を渡って戦いを仕掛けたが決着がつかず
200日に渡って対峙する事になる。
兵站線(本拠地と前線との間)の長い武田軍は兵糧の調達に苦しんだそうだ。
長尾景虎さんの越後勢の方でも動揺が起こっていたらしく、長尾景虎さんは
諸将に忠誠を誓う誓紙を求めている。
長尾軍に呼応して一向一揆への抑えとして加賀に出兵していた
朝倉宗滴が死んだこともあり北陸への憂いが生じたことにもあり
閏10月15日に今川義元の仲介で和睦が成立し両軍は撤退した。
和睦の条件として晴信は須田氏、井上氏、島津氏の旧領復帰を認め、
旭山城を破却する事になった。
これにより長尾氏の勢力は長野盆地の北半分(犀川以北)を
確保することになった。
これが第2次川中島の合戦の全貌である。
第1次川中島の合戦の時はほんの30日だったが今度の合戦では
200日もかかりほぼ7倍弱の日数をかけても決着がつかなかった。
第2次川中島の戦いの後に長尾景虎さんと武田晴信の双方から
感状(分けりやすく言えば、大名が戦の後に部下の武将に出す
証書のようなもので、この証書に今回の戦における手柄が書いてあり
それに対して、大名がどこそこの土地を褒美として与えると
書いてある証書である。)
また領地安堵と言って自分の陣営に敵方から寝返ったものに戦の後に、
先祖代々の土地をそのまま自分の領地として治めていいと認められる事もある。
敵方に寝返る者の多くは、自分の領地を守りたいから寝返りをしたのである。
お信みたいに、領地安堵を認めないようなことを繰り返せば信用されなくなる!!
つづく