つづいて第5次川中島の戦いに移る。
戦いの最終戦である第5次川中島の合戦は1564年に始まった。
別名塩崎の対陣ともいう。
上杉輝虎(上杉政虎さんが1581年末に将軍義輝の
1字をもらい輝虎と改名した)上杉様虎さんは川中島に出陣したが
信玄は戦いを避け、塩田城に布陣してにらみ合いで終わった。
飛騨の国の国人衆同士の戦いが起こった。
上杉・武田氏の戦いに相関し、飛騨国人衆の三木良頼・
三木白綱親子と江間輝盛は江間時盛と対立していた。
1564年に信玄は江間時盛を支援し、上杉輝虎さんは、
三木氏と江間輝盛を支援して介入した。
1564年の6月に、信玄は家臣の山県昌景・甘利昌忠の家臣を
飛騨の国に派遣して、これより三木氏と江間輝盛は劣勢になる。
1564年の8月に上杉輝虎さんは武田軍の飛騨の国への
侵入を防ぐために川中島に出陣した。
信玄は長野盆地の南橋の塩田城にまで進出したが、決戦を避けた。
2ヶ月に渡って対峙する事になった。
10月に両軍撤退して戦いは終わった。
以後、上杉輝虎さんは関東出兵に力を注ぎ、信玄は東海道と
上野に勢力を拡大していった。
これが1534年から1564年に渡って、
中断期間を挟みながら30年の間に戦われた信濃の国を
巡っての戦いの全貌である。
上杉景虎さんは信濃の国を守るために、介入し晴信は
信濃の国を侵略するために介入した。実に長い戦いであった。
これで上杉謙信が凄い武将であったことは
納得してもらえたと思う。
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