忍者ブログ
2008年2月15日オープン
[15] [16] [17] [18] [19] [20] [21] [22] [23] [24] [25]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

6月4日に無事ワールドカップの本戦に出場が決まったが、この日の試合も含めて長く厳しかった、ワールドカップアジア予選の試合を振り返ってみたいと思う。

アジア予選で日本代表の初戦の試合は去年の2012年の63日の7時半のオマーン戦がアジア予選の3次予選の初戦でアジア予選の最初の試合でもある。(なぜ3次予選が最初の試合かと思う人も多いだろうが、詳しくは分からないが日本代表や韓国代表みたいにワールドカップに出場しているチームは、1次予選や2次予選は免除されているのだろう。)

しかし、見方によっては初戦がいきなり3次予選というのも、ある意味コンヂィションを整えるのも難しいだろう。日本代表は初戦だがオマーン代表にすれば何試合も戦っているのでコンヂィションはばっちりなのだから、まあ一次予選や2次予選を戦わなくてもいいから、疲れはないわけだからその分だけ有利なのは確かだが。

とにかく日本代表はこの初戦は、ホームだから日本国中の応援を受けて前半11分に本田のゴールで、後半は前田と岡崎のゴールで快勝した。でも試合の最初の方は苦しい場面もあった、でも勝てて本当によかった。

第2戦は6月8日にヨルダンを相手に戦った、この試合もホームでの試合だったから選手も心強かったのだろう6-0と快勝した。まず前半に前田が1ゴール本田が2ゴールを決めて香川が1ゴール決めて後半も本田がPKを決めてこの試合は本田が3ゴールも決めてハットトリックになった。まだ日本代表の攻撃は終わらない栗原のゴールで見事に勝った。

次の試合は6月12日でこの試合は引き分けとなった。この試合はアウェーで戦った。(ホームとアウェーの意味が分からない人もいないと思うが。このブログを見て初めてサッカーのこと知った人のことを考えて、一応だが軽く解説するがホームとは自分の国で試合をすることで、アウェーとは相手国で試合をすることである。当然のことながらホームでは自国民の大応援が期待できるから勇気を得れるが、アウェーでは相手国の国民が相手国のチームを応援することになるから非常に試合をやり難くなることになる。だからワールドカップ予選では不公平がないようにホームアンドアウェーで戦うことになっている。)

だいぶ話が逸れてしまったから6月12日の試合に戻すが、栗原が先制ゴールを挙げたが、オーストラリアのウイルクシャーにPKを決められてドロー(英語の分からない人のために日本語に訳すと引き分けのことである。以降そういうものだと理解して貰いたい。これ以降はこれで理解してもらったものとしてもう、日本語ではなくカタカナで表記していく。)

まあPKをきめられたんじゃ、まあしょうがないとも言えるがペナルチィエリア(サッカーが始めての人が読むかもしれないから念のため書いて置くがゴールキーパーが手を使えるエリアである。)での反則は本戦では避けたいものである。


念のため図で示した。この後ろの長方形がゴールでこの青色のがキーパーが手を使えるエリアである。またキーパーはこのエリア内しかキーパーは手を使えないこのエリアの外に出たら足でボールを処理しなければならない。また、この青色の外のエリアも含めてペナルティーエリアと呼ばれる。全てを含めてペナルティーエリアである。

この中で反則をすると、ハンド(わかりやすくいえば頭や足や体でボールを触れてもかまわないが手や腕でボールを処理することは反則になる。)それに、もちろん手などで頭や体を押したり、倒したりするのも反則だ。それともうひとつ、ボールを足で取りに行くのは構わないが故意に足で相手の足を引っ掛けて倒すのも反則で、いずれもPKが与えられる。

PKとはペナルティーキックのことである。もちろんPK合戦の時は相手に反則があったのではなく決勝トーナメントで決着をつけるために行われる。

このPKが与えられるとゴールに近い所から、キーパーと1対1でシュートするのだが、この距離なら簡単に決められるだろうと思われるが、これがなかなか難しいボールを蹴る選手も決めなければならないという、プレッシャーがかかるしなかなか決められないことが多い。

まさに、入れごろ外しごろの所にボールを置くところがサッカーを面白くしているのだと僕は思う。だから試合が面白くなる、もしこの位置にボールを置かなければ色々なドラマ生まれなかっただろう。

次の試合は911日のイラク戦だ。前半の前田のゴールで1-0としてこれが決勝点となってこの試合は勝利した。この一戦は日本のサッカーを育ててくれた、ジーコ氏がイラクの監督として日本代表と戦う因縁の試合となった。

ジーコ氏は昔は日本代表の監督をしていたことがあった。日本代表の選手の多くがジーコ監督のもとで戦ったこともあったから、お互いやりにくかったことだろう。

次の試合は1114日のオマーンとの試合だ。前半に清武がゴールしたが、後半にオマーンのマハイジリに追いつかれて、また今度は岡崎がゴールを決めて突き放し試合をを決めた。

次の試合は326日のヨルダン戦だ、まず前半にヨルダンのバニアテヤに先制ゴールを決められて日本も香川が後半に同点ゴールを決めたがハイルが逆転ゴールを決められて負けてしまった。この試合は余りにも深夜だったから見れなかった。朝方人間の僕にはしんどすぎる。この結果を聞いた時に本当に最終予選で最初にスタートダッシュで勝ち点をたくさん上げていて本当によかったと思った本当にアウェーでは何が起こるか分からない。

そして、先週の64日のオーストラリア戦だ。試合の最初から日本が-オーストラリアの、サイドで攻撃をして何度もシュートを打ってゴールの枠をとらえたシュートもあったがオーストラリアのゴールキーパーのシュウォーターに止められてしまった。中には体勢を崩されて、片手一本で止められたこともあった。

攻め続けても点が取れないと何が起こるか分からないのがサッカーだ、後半の終わり際にオーに、ボールを蹴られて解説者によるとシュートではなくゴール前へのパスだったらしいが、どちらにしてもそのボールがゴールキーパーの川島の上を越えてゴールに吸い込まれてゴールを決められてしまった。

今までの日本代表なら焦って攻撃を仕掛けるだけで、ただ時間だけが過ぎていくだけだったが、今の日本代表は大勢の日本選手がヨーロッパで日々ひたすらヨーロッパでレギュラーの座を獲得するために厳しい環境に身を置いて熾烈なレギュラー争いをしているのからなのか、精神力が半端ではない。

すぐに本田と香川を中心にして激しく攻め、ハンドによるPKを獲得して本田が自らボールをセットして見事にPKを決めて同点にしてドローに持ち込んだ。本当に試合終了前の際どい時間帯での見事な同点シュートだった。

そして、611日のワールドカップアジア最終予選の最後の試合のイラク代表との一戦である。イラク代表は、ジーコ監督が最終予選敗退寸前まで追い込まれた責任を取らされて

クビになってポポビッチ監督に代わっていた。(大勢の人はジーコ監督のジーコいう名前は本名だと思っているが全然違う。前にナントカかんとかコインブラでその後もおびただしい量の名前が続く。ラテン系の人々に特有の長ったらしい名前をジーコ氏は持っている。これでは生活上に不便をきたし、それで愛称をジーコと呼ばれるようになった。

例えば、学校で授業をする時にあの長ったらしい本名を先生がいちいち呼ばなければならないとしたら、とんでもないことになるのは分かるだろう先生が当てたり、注意するのにもあの長ったらしい本名を言わなければならない、授業が大混乱してしまうのがわかるだろう、しかも、長ったらしい本名を持った生徒がほかにもいたら、大混乱に拍車がかかるだろう。こういう事情でラテン系の人々は愛称が付けられて人が結構多い。)

イギリスとスペイン(まあ慣用句に合わせて、こう言う風に書いて置くが、僕の今までブログを読んでくれた人はイスパニアだというのが本当の国名だというのがわかるだろう。)とがトラファルガー沖で艦隊決戦をした時にもイギリス艦隊の艦名が短いのに対してスペイン艦隊の1隻はながったらしい名前を付けていた。ラテン系の人々は長い名前をつけてしまうものだろう。

だいぶ試合から離れて、余談が長くなったから試合の振り返りに戻るがイラク戦は、もうイラクはこの試合に負けたら、その時点で最終予選敗退が決まる試合だからイラクはどんどん前に攻めてくる、難しい試合になった。

日本代表も結構シュートをするが、どうしてもゴールネットを揺らすことが出来ない、少しピンチとチャンスが続く試合になった。チャンスは日本代表のほうが若干多かったかっが、シュートがゴールに結びつかなかったのがもったいなかった。

しかし、後半の終わり際の時間帯に、岡崎から遠藤そして再び岡崎に遠藤から素晴らしいパスが送られて見事に岡崎がスライディングシュートで1点を取り決勝点を挙げて見事に勝利した。

もうちょっと早い時間帯にゴールを決めてくれたら、もう少し楽に見れたのだが。まあこれから一年もあるから、もう少しシュートの方は確実に決められるように、練習して欲しい。

それにしてもワールドカップアジア予選は楽な試合は少なかった。3次予選も、北朝鮮戦はアウェーで、アウェーとは英語で敵地の意味だが、文字道理の敵地だ。

北朝鮮だけでなく朝鮮半島全体の人々に日本は、朝鮮半島の人々が望んでいないのに、李氏朝鮮王国を滅ぼして勝手に日韓併合をして、無理矢理に日本語教育をして、日本語読みを押し付けて朝鮮半島の人々の伝統的な発音を、禁じたり植民地経営をして収奪をした過去がある。

北朝鮮の生みの親、金日成は対日ゲリラの指導者だった。韓国とは一応、損害賠償が不十分でも済んで友好関係をもっているが、それでもやはり、わだかまりがある。まして、北朝鮮は日本と国交がないんだから、こんな国では反日教育をうけている。

こんな国で3次予選をやったせいだろうか日本は完全敵地の雰囲気に飲まれて負けてしまった。しかも次の試合ではただ勝つだけじゃなく、大量得点を取らなければ、3次予選敗退の危機になってしまった。

それまで2点以上取っていないのに、大丈夫かと思ったがマレーシア相手に6点も取って快勝した。日本代表の選手に危機感があったのだろう。いくら相手のマレーシアが、かなり格下とはいえ、あの蒸し暑いマレーシアの気候で6点取るにはかなり体力を消耗しただろう、気候はいつもホームのチームの味方だから。

とにかく、ワールドカップに来年に出れることは技場で頑張って欲しいものだと思う、まず初戦のブラジル戦でどこまで出来るか楽しみ決まっていることだし、

まずコンフェデレーションカップで来年のブラジルワールドカップで開催される競技場で頑張って欲しいものだと思う、まず初戦のブラジル戦でどこまで出来るか楽しみだ。








 

PR

今年の決勝は、春夏通じて初優勝を目指す浦和学院と
春の選抜
2度目の優勝を目指す済美の戦いとなった。
注目は浦和学院の強力打線が済美の安楽投手を攻略
できるかが、注目だったが結果は浦和学院の圧勝だった。

さて試合だが済美が、2回表金子選手がレフト前ヒットで
1点先制したが、ついに5回裏に浦和学院のバッターの
バットが火を噴いた。

打順が3まわり目を浦和学院打線はまず、6番の斉藤選手が
レフト前ヒットで出塁。
7番の西川選手がツーベースヒット
でノーアウト
2,3塁にして、8番小島選手のレフト前タイムリー
でまず、同点にしてなおノーアウト1、
3塁にしたところで
済美のキャッチャーの金子選手の牽制球で、
3塁走者の西川選手
がワンナウト
1塁になった時にはもうこれでこの回の攻撃も
終わりかと思ったがさらにツーアウト後、
1番上村選手の
打球をファーストがエラーして出塁して竹村選手の
2塁盗塁
の後に
2番にえ選手へのデットボールで満塁とした後高田、
木暮、斉藤、西川の選手が長短のヒットを打って
7点も安楽
からもぎ取った。

その後も加点して17-1で済美の安楽を粉砕した。
完全に浦和学院が安楽投手を攻略した試合だった。

小島投手も、10本もヒットを打たれて先制された後も再三、
済美にチャンスを作られて、苦しい序盤だったが、
よく粘り強く投げぬいた。この頑張りが
5回の大逆転を
生んだのだろう、その後に
7回に2点、8回に8点とって
17-1で浦和学院が大逆転する原動力になったのだろう。

もし済美のチャンスに点を入れられていたら、浦和学院の
大逆転はなかったかもしれない。本当に小島投手はよく、
再三のピンチに投げ抜いてくれたとおもう。

春に優勝したら、次は当然ながら春夏連覇を狙うわけだが、
これはなかなか大変な道のりだと思う。春に負けた有力校も
夏に向けてリベンジを狙ってくるだろうし、まず大阪桐蔭も
春夏春への挑戦を台無しにされて、今度こそはと夏2連覇を
狙ってくるだろうし、済美も夏こそはと狙ってくるだろうし
ほかにも我こそはいう高校も出てくるだろうしこれは
夏が楽しみだ。




今年の選抜大会の第8日目は全部好きな高校が勝って好まない
高校が負けるという最高な日になった。

では、さっそく第一試合からだが、北海道の北照高校と尚志館
の一戦だ。
どちらも好きな高校同士だからどちらの高校が勝ってもよかった。

まず北照高校が1回の裏にヒットと盗塁であざやかに4点を取った。
その後も
4回の裏にフォアボールのランナーを足がかりに小畑選手
のタイムリーツーベースで
1点を取って5-0としたが尚志館も
6回表ヒットで1点取って、7回の表も半下石選手のヒットと
吉国投手のヒットでツーアウト1.3塁として
9番の関選手の
タイムリーヒットで
1点を返して、5-2としたが、7回の裏に、
北照がいったんは三、遊間の打球を
3塁でアウトになったが再び
ランナーが出て尚志館のバッテリーのエラーで
2塁にランナーが
進んで、
6番土門選手のタイムリーヒットで突き放し。
尚志館も8回表1死1、3塁で半下石選手の内野ゴロの間に1点を
取ったが6-3で北照が尚志館を破った試合だった。

第2試合は浦和学院が1回表にノーアウト1塁で贄選手が
タイムリースリーベースで、まず
1点を取り、なおもノーアウト
3塁で山根選手が内野安打でもう1点を取ってまず主導権を握り。

2回には、ツーアウト1,2塁で高橋選手がライト前ヒットで
山形中央が
1点を返したが、その後も浦和学院が、6回の表に、
高田選手のソロホームランで
1点を取りそのあともヒットを
重ねて5-1にしてその後も得点を重ねて11-1の大差で
勝利した試合だった。

さて、第3試合だが早稲田実業が仙台育英とが戦った試合だが
3回に早稲田実業が右中間を破るスリーベースヒットで先制した
が、
8回に逆転して浦和学院が勝利した。

この日は応援している高校が勝利して好まない高校が負けて
最高な
1日だった。






このおじいさんが関釜フェリーで出会った韓国のおじいさんだ。
日本語も簡単な言葉なら喋って、理解できるようだが、ゲームをしませんかという日本語は
理解できなかったようだ。
このおじいさんには写真を撮ってもいいかちゃん許可をもらっている。



これは、関釜フェリーの船首側のデッキから撮った、朝焼けにしずむ岩礁と島の写真である。前に船首が見えているのが分るだろう、これが立ち入り禁止区画に一番近い船首側のデッキから撮ったものである。これ以上は立ち入り禁止区画になっている。横の方にハンガーで吊るさせている深緑色のものは非常時に船客や乗員を避難させる時に使われるボートである。



これが下関から釜山までの航路で撮った、朝焼けにしずむ岩礁である。画面の向かって、右側に灯台が見えている。夜には航路標識になるのだろう。いずれも、もう韓国側の領海にはいっている。
 


これが色々なロープの縛り方の図である。もっと拡大したかったのだがこれ以上アップにすると画面に入りきらなくなるのでこんなもので我慢してもらうしかない。それにしても色々な縛り方があるものだ、こんなにあったんじゃ、覚えるのは大変だろうと思う。まあほとんどは商船学校時代におぼえるだろうが。中央、上の方にあるのは浮き輪だろう・下のほうにある木の板はボートのオールだろうか。



これがぼくが乗った関釜フェリーの船の模型である。純白にブルーのラインの綺麗な船である。
それに大きいし、船の中には風呂にレストランまで揃っている。



 これが、今回乗ったフェリーの名前である。
<はまゆう>とはいかにも海にふさわしい名前ではないだろうか。



これが釜山港の朝の風景である。いろんなコンテナが積んであって釜山港の活気が良くわかる風景だ。
 
これもコンテナの山だ。橙色の建造物は荷物の積み下ろしのクレーンだろうか、
画面奥には高層マンションのような景色が見えている。



これがはまゆうの船尾側から色々な船が係留されているのが良くわかるだろう。
釜山が神戸港や横浜港に劣らない貿易港であることが分るだろう。写真奥には高層建築が建っている。
 
 

釜山港の夜景である。実に綺麗な夜景だ、例によって立ち入り禁止区画ぎりぎりのデッキからとっている。



どこかよく分らないがこれは日本の領海内に入った所のどこかの島である。
何と言う島かは海図を持っていないので全くわからない。
これで、この旅の写真はこれで終わりだ。
萩では一泊したがそれでも観光するには充分とは言えないもう一日泊まるべきだったが、
今回は韓国にも行かなければならないから、充分に時間を取れなかった。
韓国についたが、そこでも釜山から麗水に日帰りで帰るのは無理だといわれて
釜山で時間を使う羽目になってしまった。
釜山からプサン鎮跡に行こうとして地下鉄に乗ったが、どこが釜山鎮跡か分らず。
釜山に帰ろうとしたが、釜山駅で切符を持っていないのに気づいて、しかたなく、
一番、遠い駅からの料金を徴収されてしまった。
韓国の自動改札も、もう少し日本のようにスムーズに通れるようにしてもらいたいものだ
、韓国の自動改札は券を入れても簡単にホームに行けないように、
突起が出ていてそれを回転させて何とか体をねじこんで、なんとかかんとかホームに行けるようになっている。
あれでラッシュアワーなんかで、よく混雑しないものだ。と思う。
突起に旅行かばんに挟まってしょうがないそれでイライラして切符を取るのを忘れてしまったのだろう。
その時に絶望してしまったのか、韓国にいるのを忘れて日本語で、マイクに喋ってしまったら、
なんと日本語が話せる駅員が出てきたのには驚いてしまった。
日韓ワールドカップの時に、日本語が出来る駅員が配置されたそうだ。
昼ごはんにラーメンを地下街(まあ日本の地下街とはくらべものにならないが)で食べたら
火が出そうなほど辛かった、スープには唐辛子が浮いていた。
晩御飯に食べた、焼肉は美味しかった。その焼肉店の玄関に飾ってあった、
玉(これで、ぎょくと呼ぶ。中国のホータンと言う都市の近くのホータン川でしか取れない宝石だ)の
龍の置物を記念に買って帰った。
日本に帰ってから残金の7万円を釜山まで国際送金するのには苦労したが。
河合さんがいなかったらこの置物は手に入らなかっただろう。
まあ、悪いことばかりではないが、韓国への旅の途中に老夫妻に出会って、交流が出来て楽しかった。
いい旅だったとおもう。
 
 











 

功山寺に咲いていた藤の花が綺麗だから撮ってみた。



長府市の市の文化財らしい興味がある人は、看板を拡大して撮ってあるのでゆっくり読んで欲しい。
僕はもうキリスト教徒なので輪蔵と言われてもピント来ない。



この上の写真は高杉晋作維新回天の像である。長州藩が幕府派に牛耳られた時に維新派は、
いわゆる賊論派と言われた幕府派を排除して幕府と戦うか、それとも幕府に降伏するかの会議を
功山寺で開いた。大勢は幕府に降伏するというものであったが、高杉晋作さんは、
皆が戦かわないのなら俺独りでも行くと言い、ほかの諸隊も維新派も皆が幕府派を排除して
維新派が藩の実権を握り幕府と戦うと決めて幕府派を排除して幕府に勝利した。
このことを記念してこの像は建てられた。



川岸に鴨が憩ってたのが可愛いから撮ってみた。
家族ごとにくつろいでいるのだろうか、実にほほえましい光景だ。



ここでも鴨が泳いだりくつろいだりしている。向かい側の岸ではおじさんが立ち止まって鳥に餌を
あげている。この微笑ましいシーンを残したくてシャッターを押した。

 
帰りに、通りの横の川に綺麗な錦鯉が川を泳いでいるので撮ってみた。
功山寺の山門を出てずっと海のほうに降りていく途中の川でなんと言う名前の川かもう忘れてしまった。


これは関門海峡を航行する船である。この船は積荷からコンテナ船らしい、コンテナ船の船首方向の
白い船は何の船か分らない、余りにも小さすぎる。このコンテナ船だって遠いところ、
小さく航行しているのを、デジカメのアップ機能の限界までアップしてかろうじて見える写真に
しているのだから焦点から、外れたらもう何の船かまでは分らない。
海面に、少し白波が立っているのが見えるだろう。写真では動かないから分らないが、
実際はものすごい勢いで潮流が片方の端に向かって流れている。
あの壇ノ浦の戦いもこの近くで行われた。
壇ノ浦とは、平安時代の昔の呼び名で幕末の時は馬関海峡と呼ばれていた、そして現在は
関門海峡と呼ばれている。関門海峡には壇ノ浦の戦いの古戦場の碑があるそうだが、
ぼくは平家なんか滅んで当たり前だと思う人間だから、わざわざバスに乗って碑を
見にはいかなかった。



同じコンテナ船が近づいてきたから、撮って見た。今度は大きくなって、はっきりとコンテナ船で
あることが分るだろう船尾はどんなにワイドにしても入らなかった。



これが長州藩が、アメリカ・フランス・イギリス・ロシアの4カ国連合艦隊と戦った時に実際に
長州藩が使った大砲である。なぜ4カ国連合艦隊と戦う羽目になったかは、幕末関係の情報を、
ネットで調べてもらうとして、原因は幕末に幕府が全国に外国船打ち払い令を出して長州藩が
その命令に律儀に従って外国船を砲撃したことによる。これに激高して4カ国が討伐軍を
送ってきた。
結論から言わしてもらうと、長州藩のぼろ負けである。長州藩の大砲が全く役に立たなかった
ことが敗戦の原因である、大砲を撃っても敵船に到達せずに、4カ国連合艦隊の艦砲射撃で
砲台を砲撃されてあえなく敗戦した。
ここにある大砲は、4カ国連合艦隊が戦勝記念に本国に持ち帰ったものを後に返還された
本物の大砲である。



これがその大砲のアップである。砲口も小さくてとても実戦向きではないことが分るだろう。
射程距離も短かった。表面には、模様も描かれて大砲と言うよりかは美術品だ。
そりゃ4カ国連合艦隊の将兵も喜んで本国に持って帰ったことだろう。



下関から釜山の間にある島の写真である。なんという島であるかは海図を持っていないから
分らない。見た感じでは、以外に大きく見えたが実際に島を一周でもして見たらすぐに
一周できてしまうだろうが。
















カレンダー
08 2024/09 10
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30
バーコード
カウンター
Powered by ニンジャブログ  Designed by ゆきぱんだ
Copyright © 小中の航海日記 All Rights Reserved
忍者ブログ / [PR]