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2008年2月15日オープン
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おいしいチーズを求めてウォレスとグルミットはお手製のロケットで月に旅に出かけるのだが能天気なウォレスは気楽に月の砂でクラッカーをむしゃむしゃ食べている。
そしてウォレスは自動販売機だと思ってロボットに硬貨を入れてなにも出て来ないから諦めていくとそのコインを燃料にしてロボットが動き出してウォレスとグルミットの知らないうちに動き出した、そんなこととは、まったく知らずのんきに月の散歩を楽しんでいた。
ロボットはウォレスとグルミットの後をつけて行ったが、またエネルギー切れになって止まってしまった。またウォレスがまた、コインをロボットに入れたら再び動き出して今度は、ウォレスとグルミットを襲ってきた、そしてウォレスとグルミットは慌てて逃げようとして緊急発進した、そして無事に地球に帰ってくることができた。
あまり、大したこともない作品だがウォレスとグルミットシリーズの監督が美術学校の卒業製作として7年も完成までに費やした記念すべきデビュー作品で、ここからウォレスとグルミットの作品が始まった。






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連休中にヒマラヤにかける橋という映画を見た。ヒマラヤ映画祭での唯一の日本の映画だった。川口慧海にあこがれて何回かヒマラヤに行っているうちにネパールに雨季に流されない橋がないということを知り自分の力で橋を作ろうとした日本人の話で名前は忘れてしまった。まず日本で150万円を集めて足りない分は国際援助事業だからネパールの日本大使館に出してもらってやっと作るんだが、村人たちは橋ができると聞いて大喜びだ。川の対岸に分村ができてぜひとも雨季に流されない橋が必要だったから村人総出で、はずは土台作りだ橋脚にする石をひとつずつ川のなかに積まなければならない。それからその上に鉄板をひとつずつインドから連れてきた職人が橋の上に乗せていく葛かなにかで出来たつり橋のうえ乗せていくだけだが。橋が完成したときには村人全員とネパールの日本大使館の大使と地元の有力者が集まって盛大にお祝いをしてたのしそうだった。最後に、もっと恒久的な橋を作らなければなければならないというところで映画は終わっていた。個人で橋を作るのにこんなにお金がかかるとは知らなかった150万円もかけても鉄板だけしか手に入らないなんて、こんなんじゃ恒久的な橋なんかいくらかかるのだろうかとおもった。





だいぶ前おそらく、中学生くらいだったと思うがNHKのテレビでヘレンケラー物語という映画をやっていた。
ヘレンケラーという人は生まれつき耳も聞こえず、目も見えず、口でしゃべれない3重苦をのりこえて公演活動や社会活動や平和活動に生涯を捧げた人で小学校の図書館にある本では偉人の一人に書かれているが、最初はそんな人物ではなかった。
ヘレンケラーはアラバマ州北部のタスカンビアの町近くの家で1880年6月27日に生まれた、父のアーサー・ケラーは南北戦争当時の大尉で母のケイト・アダムスは20歳も離れた夫婦だった。
この両親のこととかはネットで調べたことで、映画ではいきなり、アンナ・サリバン女史との出会いから始まっていた。
ヘレンケラーは1880年6月27日に生まれた。生後6ヶ月で片言ながら「こんにちは」がしゃべれるようになり、1歳の誕生日にはよちよちながら歩き出すほどの成長ぶりだった。
しかし、1歳9ヶ月の時に原因不明の高熱と腹痛に襲われて、一時は医者も見放すほどの状態だったが、医師の懸命の努力でやがて回復した。しかし、目と耳をおかされて光と音の世界から隔絶されてしまった。
彼女の記憶に残る言葉と言えば水を意味する「ウオー、ウオー」だけだった。映画ヘレンケラー物語では動物のようにウオー、ウオーと唸っている姿が描かれていた。
なんとか、母子の間では身振り手振りで意思の疎通が出来ていたので両親はあきらめなかった。
両親は見識の高い人物だった。文献を調べて各方面の名医の診察を受けて、視力の回復は到底無理だが、視聴覚障害者にも立派な教育をしていくのは決して不可能ではないとの確信を得た。
そして、ヘレンケラーの両親のアーサー・ケラーとケイト・ケラーの二人は電話の発明者で障害者について研究していた、アレクサンダー・グラハム・ベルを訪れ、マサチューセッツ州のウォータータウンにある。パーキンス盲学校校長のアナグノスに手紙を書き、家庭教師を派遣してくれるように要請した。
この1877年の3月3日に派遣されてきたのが、同学校を優秀な成績で卒業した、当時20歳のアン・サリバンであった。アン・サリバンは幼いころから目が見えない(当時は手術で目が見えるようになっていた。)経験を生かしてヘレンに「しつけ」「指文字」「言葉」を教えた。おかげでヘレンは諦めかけられていた言葉を「話す」ことを覚えた。このアン・サリバンこそ50年間ヘレンの良き教師としてまた友人として、ヘレンを支えていくことになる。
そして、ヘレン・ケラーをマーク・トエイン(トムソーヤーの冒険の作者)をして19世紀の聖女と言われるまでに育て上げた家庭教師である。
着いた翌日から教育に入った。まず、パーキンス盲学校から送られた人形をヘレンに抱かしてヘレンの掌にDOLLと指文字を書いた、もちろんヘレンにはなんのことかわからなかったが何度も繰り返していくうちに、そのことが自分の持っている物の事だとわかり、物には名前があることが分かった。
これが、教育法だが書いているうちにこれは大変な苦労だと思えてくる。毎日持っているものが人形というものであると、わかるまで指文字のDOLLを際限なくヘレンの手のひらに書き続けるなんて気が遠くなるような作業だ!!
しかし、サリバン女史の努力が実ってヘレンは2週間後には全てのものには名前があることを知った。もともと頭のいいヘレンの進歩は日に日に進んでいった。
教育を始めて3ヶ月後には300もの言葉を覚えた。これはヘレンの頭のよさだけではなくサリバン女史の教育者としての教育的手腕を物語るものであろう。
そりゃそうだろう、サリバン女史が来るまでは一つの言葉も知らなかったのにこんなに短期間で、こんなに多くの言葉を覚えることができるなんてヘレンの天賦の才能だけじゃなくてサリバン女史の教育者としての才能がなければ不可能だろう。
かくして、多くの言葉を教えることに成功したサリバン女史は今度は、『読む力』を教えることにした。
それも、点字ではなく一つ一つの語を紙に凸文字で書いたものを順序よく並べてである。そして、次には書くことを教えた。そしてヘレンの興味のあることを、注意し、教育と生活を、興味を、引き立て独学で覚えることのできるのすべてを、教え授けるようにしていった。このことにより、ヘレンの思想はどんどん整理され、観念の正確さを加えることができたと、後にサリバン女史は語っている、
そこで1889年10月ボストンのパーキンス盲学校に赴きここで同世代の盲児と遊ぶことができた。
そこで元気にはしゃぐ子供たちが全員、盲児だと知った、その時の驚き、しかも子供たちが幸福そうにしているのを見た時のヘレンの喜びは筆舌に尽くしがたく、自伝に『私はなんと生き甲斐を感じたことでしょう』と書いているのを見ても想像される。
この旅行では、ワシントンに行ってクリーブランド大統領に招待されたり、生まれて初めて汽船に乗ったり古戦場を訪ねたりして生活の内容もますます深くなっていった。日本とはえらい違いだ、戦前の日本の首相が三重苦の障害者を首相官邸に招待することなど、まず考えられない!!アメリカだからこそ、そういうことが可能なのだろう、うらやましいかぎりだ。
1890年はヘレンにとってヘレン11歳の年は一生忘れられない年となった。それは、長年、目は見えないとしても話したい、語りたいと思っていた。非願が果たせた年だからである。
それまでに一語でもいいから話したいと自分の喉仏を押さえたりサリバン女史が話す時の舌の動きを知ろうと口の中に手を突っ込んでサリバン女史がおう吐したことも、一再ではなかった。
僕らは生まれた時から当たり前に話しているが、ヘレン・ケラーのように障害のある人々にとっては、話したりするのが夢になるのだろう。
はじめ周囲の人々はそんなできもしないことをして、もし失敗して悲嘆にくれて指文字や点字の教育を妨げてられてしまうを恐れたが、当時ノルウェーで聴覚障害者に対する発声研究に一部成功したことでヘレンは矢も盾もたまらず、その熱意にサリバン女史も動かされて遂にボストンのホレースマン聾学校にヘレン・ケラーを伴い校長のサラ・フラー女史に読話と発音法を学ぶことことにした。
ヘレンの自伝から引用すると『私は校長先生が一語を発するごとに彼女の顔の上に手をあて、唇の運動や舌の位置を探って、その真似をして、一心に学んだ結果、一時間後には6つの音の要素(M・P・A・S・T・I)を覚えこんだ。かくて私は最初に「It is warm todey (今日は暖かです)」と自分には聞こえないながらも、声だけを発し得た時の驚きと喜びは、終生忘れ得ないことです。それは聴き取りにくい言葉ではあった。しかし正しく人間の言葉であった。これで私は永い間の苦悩から救い出された。』
という意味の言葉を書いていることからも、その喜びは、如何に大きかったかがわかる。
しかし、ぼくら健常者にはしゃべれることが当たり前のことでもヘレン・ケラーのような聾唖者の話せた時の喜びは、はかり知れないことだろうと思う。
ヘレンは更に1894年に2年間、ニューヨークのライトヒューメン聾唖学院で発声法の研究を積んだが、ドイツ人の教師に学んだので、わずか数ヵ月後には、ドイツ語ならなんでも分かるようになった。これは、ヘレンの頭脳が凡ようでなかったことに加えて、サリバン女史が明けても暮れても側を離れずのサリバン女史の献身的な手助けがあったことは、言葉に尽くせない。
そのころには、ヘレンの学問もそうとう進みラテン語、歴史文学、地理などには特に興味を持ち同世代の男女生徒の優秀なものと同程度のものだったそうだ。
ヘレン・ケラーはサリバン女史の献身的な手助けが、あるとは言っても4年前は一言も話せなったのにここまで進歩するとはヘレン・ケラーは相当な努力家だと思う。僕なんか勉強をおろそかにしていただけに、これは並大抵の努力じゃないと尊敬してしまう。
ヘレンの向学心と求知心はますます高まり大学教育を受けたいという希望をもらすようになった。幸いある方面からの物質的な援助を受けられて、準備教育をアイアン博士について家庭で学ぶようになった。ヘレンはハーバード大学への進学を特に希望し、その入学準備としてケンブリッジ市の女学校に入学した。時にヘレンは17歳だった。
ハーバード大学の当時の入試科目は英語、ドイツ語、フランス語、ラテン、ギリシャの両古典及び代数と幾何だった。女学校での授業の受け方はサリバン女史も一緒に登校して同席して、教師の教えるところを、指文字でヘレンに伝え、ヘレンが質問する時は、指文字でサリバン女史が教師に口で質問するという不便なものだった。
ヘレンはラテン語が得意で、数学が苦手だった。かくて3年の準備期間は、睡眠時間を割いて文字通り肉を裂いて骨を削る思いで,何度も点字本を読むために指頭には血が吹き出るほどだったそうである。
こんな苦労するくらいなら、僕だけじゃなくて多くの人間は高等教育を受けることを断念する人も多いのではないだろうか?僕ならとてもじゃないけど、そこまでの努力をするくらいなら高等教育を断念してしまう!!本当にヘレン・ケラーという人は努力の人だと思う。本当に尊敬する。
しかし、この労苦は報われる時がきた。2回にわたる入学試験を経てハーバード大学付属のラッドクリフ女子大学に優秀な成績で視聴覚障害者の身で合格の栄誉を獲得することができた。新聞は歴史上最初の快挙と報道した。
日本の戦前なら、とても考えられないことだ、視聴覚障害者の身でまして女子大学などにはとても入学できないだろう!!日本の戦前なんて障害者に対する理解など、ないに等しい状態だったのだから。今でも障害者の子供が普通の小学校に入学するのに痰の吸入ができないとかなんとか言って拒否するぐらいなんだから。本当に日本はアメリカやヨーロッパに比べて障がい者に対する態度は100年くらい遅れている。
1904年に優秀な成績でラドクリフ女子大学を卒業した。そして視聴覚障害者として前代未聞のバチュラー・オブ・アーツの学位を獲得した。卒業の年の10月に特にヘレン・ケラーの卒業を記念して、ヘレン・ケラーデーとしてヘレン・ケラーを招いてセントルイス博覧会は大講演会を開いた。「聴覚障害者」が言葉を発する奇跡の人ヘレンが言葉を発するのを聴こうと大勢の人々が講堂に詰め掛け、窓という窓に人々が折り重なるほどだった。ヘレンは生まれて人々の前で初めて話すのに大声を発したつもりだったが側にいた人々に辛うじて聞こえる程度だったが博覧会会長のフランシス氏が大声で復唱すると人々が講堂に殺到し交通巡査が整理するほどだった。
発声法にまだ不完全だったので1909年から3年間、ボストン音楽学校の声楽教授ホワイト氏に学んだ。モントクレアでの第1回講演を始めに、その後40年間の間ヘレン・ケラーは米国内はもとより海外で講演した回数は幾千回におよんだが、ことに視聴覚障害者の福祉ために声を張り上げていたのである。
ヘレン・ケラーの活動は講演だけではない、今日まで米国内で関係した公共事業は数知れず、また女史が訪れた海外の国々での女史の来訪を記念して各国で視聴覚障害者に対する多くの福祉活動が生まれ、現在も大きく実っている。
また、ヘレン・ケラーは平和主義者としても知られている。第1次世界大戦以後はサリバン女史の影響もあって社会事業を唱え、実際活動にも参加して、恵まれない人々のために大いに活動した。
持ち前の平和主義に立脚してアメリカの第1次世界大戦参加に反対して中傷をうけて窮地にたたされたこともあった。
1936年にサリバン女史は他界してしまった。その時に自分の半身を失ったようだとヘレン・ケラーは語っている。
1968年6月1日にウェストポートの自宅で死去した。87年の生涯だった。
以上がヘレン・ケラーという偉人の生涯だがやはり偉人というにふさわしい人物だと思う。三重苦という障害をもちながら、人の何倍、いや何十倍も努力して勉強して高等教育を受けたり、世界中の視聴覚障害者のために世界中を講演して回ったり、恵まれない人々のために社会活動をしたり本当に素晴らしい人物だと思う。こんな人はそうはいない人だと思う。



『天空を駆けるを見て』29日に天空を駆けると言うインド人のアシスタントディレクターの撮った映画を見た。実に感動したムンバイという大都市からチャンタン高原を周ってムンバイにかえってくるという映画だった。しかもバイク一台だけの旅というのだからおどろきだ!!
まず、ムンバイから目的地のチャンタン高原まで小さい道を延々と上っていくのが大変だ、1人だけだからカメラを三脚に固定して自分が走るところを撮ってから、またカメラを回収しに行かなければならないかなければならない、しかもテントから機材から寝袋にバッテリーから燃料までバイク一台に積まなければならない!!途中の村で積載量を増やせるようにバイクに枠を付けて改造したりしてひたすらチャンタン高原をめざしてひた走る。まず、ラダックの首都のレーに着いてそこでしばしの休息をとったり食料と燃料を補給したりして、いよいよチャンタン高原にむけて進むのだが、それがまた大変だ、平均高度4500メートルの道路を行くのだから途中で酸素不足でエンジンがかからず手で押したり、道に水が流れて川のような状態のところを走ったりで大変な苦労をしてやっとチャンタン高原にたどりついたのだが、そこでいろいろな光景を見ていく。たとえばチベット仏教の僧が仮面をつけて踊る舞踏とか遊牧民の音楽とか遊牧民の生活とかいろいろなものを見物していく特に遊牧民との交流がほほえましい、昼食に招待されて遊牧民と一緒に食事をしたり自分のテントを遊牧民に見せたりほんとに仲良くしていた。まあ、その場面を撮るのにいちいち近くの国境警備隊の基地まで何百メートルも往復してバッテリーを充電しにいかなければならないのが大変だが。そして遊牧民のすみやかなボル(遊牧民のテントの名前)の撤収のときの驚き!!五個のボルが2時間もかからずヤクに積み込まれて、あっというまに今まであった小さな集落がなくなってしまうのに驚いていた。
それから、チャンタン高原の南端までの旅も凄かったこれから本当の厳しい旅が始まるというコメントの後に本当に厳しい旅が始まった人家もないところをひた走る。チャンタン高原の南端に着いて公衆民宿に泊まってベッドに寝れる時の喜びなどもよかった。
なかには高度5600メートルの世界最高の自動車道路を超えたりまさに冒険者だ!!
それから、昼食に招待してくれた遊牧民と再会して友情を確かめたり、最後に出てきたのは遊牧をやめてしまった、遊牧民の親子が出てきた父親は遊牧を続けているのだが息子の方は遊牧をやめてしまい、親子の間には溝が出来てしまい修複できなくなってしまった。父親は町では暮していけないのだろう、「人は私のことを遊牧民という、しかし私は都会に生きていける。」ここからはレストランもホテルもある。文明世界に帰っていくというところで映画は終わっていた。冒険だけじゃなく文明についても考えさせられた映画だった。





第12日の準々決勝の第1日目は最高に気持ちいい一日となった。第1試合はどちらが勝ってもいい試合だったが、強力打線の光星学院とあの大会新記録の22奪三振を奪った、松井投手を擁する桐光学園との戦いだ。
桐光学園の松井投手VS光星学園の強力打線との対決が楽しみな一戦となった。最初は田村、北條の3,4番コンビも松井投手の前に三振に抑えらていたが、8回にチャンスメイクをしたのは8番の木村拓弥選手だったフルカウントまで粘って最後はスライダーをセンター前
ヒットで打ち返して犠打とフォワボールなどでツーアウト1,3塁として3番バッター田村選手に打席が回ってきた。次の打者の北條選手からジェスチャーで[『後ろ体重で』とのアドバイスを受けて、田村選手は同じ形で打っても打てないと思い。足を上げないですり足に近い形でタイミングを取った、内角のストレートを詰まりながらもレフト前に待望の先取点を取った。そして北條選手も振り回さずに、変化球に合わせて左中間に2点ツーベースで、8回に来てやっと2人のバットが火を噴いた。
松井投手もよく7回まで田村、北條の強力クリーンナップを押さえ込んだ見事な投球だと思う。松井君、きみはよく投げた、まだ2年生だこの敗戦を糧にして来年の春と夏にまた新チームのエースとしてまた甲子園に帰ってくることを信じて疑わない。またあの素晴らしい投球をぜひとも見て見たいものだと思う。
さあ第2試合はこのブログでもっとも取り上げたい試合だ。大坂桐蔭が僕のあまり好まない天理を強力打線で粉砕してくれたのだから特に振り返っておきたい。
この試合は大坂桐蔭が強力打線で圧倒的な試合運びで勝った。まず1回表に1番打者、森友哉捕手の先頭打者ホームランで先制すると3回表、5回表と併殺崩れでアナウンサーの実況の言葉を借りるとしぶとく1点ずつ加点していった。6回表にはエースの藤浪晋太郎投手のソロホームランと水本弦キャプテンのタイムリーツーベースヒットで2得点7回表には6番安井洸貴選手が左中間ツーベースヒット出塁すると白水健太選手がライト前タイムリーヒットでまず1点さらにフォワボールとヒットでランナーをためて2番大西選手のタイムリーヒットで2点を挙げて試合を決めた。
9回ツーアウトで藤浪投手は真っ向勝負に行ったそうだ、完封を狙うなら変化球という選択肢もあった中であえてストレートを選択した、ホームランを打たれてしまったが、これは結果そうなっただけで藤浪投手の高校生らしい素晴らしいチャレンジと僕は思う
ナイスピッチングだった。天理打線をホームランの1点に抑えたピッチングは見事だ。さすがにエースらしい素晴らしい投球だった。ほぼ完璧といってもいいだろう。本当に素晴らしい投球だった。天理を完全に押さえ込んだ、ホームランは余計だったが、それも直球で真っ向勝負の結果だからしかたがない、とにかくよく藤浪投手はよく投げたとおもう。
今大会で天理が準々決勝まで勝ち上がったのには理由がある。弱いチームとばかり戦ったからだ。初戦の宮崎工業も2回戦の鳥取城北も強いチームとは言えない、全く、くじ運
だけで全く実力とは言えない。もし、日大三高とか常総学院とか東海大甲府や、仙台育英や光星学院とか明徳義塾や神村学園や常葉橘や浦添商業や福井工大福井や作新学院や桐光学園などのチームに初戦に当たれば間違いなく初戦負けだっただろう。
 
 
 
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