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2008年2月15日オープン
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ではそろそろ第3次川中島の合戦に移りたいと思う。

3次川中島の戦いは1557年に行われ別名を上野原の戦いとも言う。

晴信の北信濃への勢力伸長に反撃するために、

長尾景虎さんが出陣するが晴信は決戦を避け決着がつかなかった。

 

その前年の1556年に長尾景虎さんが出家して、

高野山に隠遁生活に入るという事件が発生した。

理由として挙げられるのが、一向に領主である自分の言う事を聞かず

領地争いを止めない部下の武将達に愛想をつかしたのが大きな理由とされている。

高野山に行く前に、しっかりと置手紙を残していた。

その内容の一部だけ覚えているのでそれを紹介しようと思う。

『あなた方が私の言う事を聞いてくれないのに絶望しました。

武田が来ますよ、あなた方だけでなんとかしてください』

これには領地争いを繰り返していた家臣たちも困ってしまい、

越後から高野山まで長尾景虎さんを迎えに行き、

長尾政景の諫言と家臣団が忠誠を誓ってなんとか取り止めにした。

 

 1557年8月に長尾家の家臣の大熊朝秀が武田と内通して

挙兵する事件が起こった。

8月13日に越後駒帰(現新潟県糸魚川市青梅)で長尾景虎さんに

戦いで敗れた後に、武田方に亡命し武田の家臣となっている。

何という見下げ果てた奴だ!!

朝敵野郎に内通して朝敵野郎の家臣に成り下がるとはあきれ果てた野郎だ!!

長尾景虎さんの陣営にいては戦うだけで領地ももらえないことに、

不満を持っていたところに晴信が内通してくれたら信濃のどこそこの

土地を領地として与えるとでも手紙で約束したのだろう。

 

 1557年正月に長尾景虎さんは家臣団と共に

更科天八満宮(武水別神社長野県千曲市)に願文を捧げて

武田氏討伐を祈願した。

1月25日に長尾家の前進基地だった水内郡葛山城(長野市)を

陥落させ落合氏を滅ぼし、高梨氏の居城である飯山城に迫った。

 

 長尾景虎さんの方も攻勢を強め、4月18日に長尾景虎さん

自身が出陣し長野盆地に着陣した。

長尾景虎さんの攻勢は凄まじく、4月から6月の間に北信濃の

武田方の諸城を次々と陥落させる快進撃で6月13日に

高梨政頼を派遣して、高井郡の市川藤若に調略を行った。

 

6月18日には北条の援軍が上田に到着し、6月23日に

長尾景虎さんは飯山城に撤退した。

朝敵晴信は自分の力だけでは、長尾景虎さんに勝てないから北条まで

引き込んだか、この北条こそ長尾景虎さんをかなり前に少し紹介した、

関東での戦いで、長尾景虎さんの敵役の北条氏のことである。

まあ朝敵野郎が組むにはこれほど相応しい相手もいないだろう。

 

長尾景虎さんは武田領内に深く侵攻して、長野盆地の奪回に向けて

攻勢をかけて7月には尼飾城を攻めたが武田方は決戦を避けた

長尾景虎さんは飯山城(長野県飯山市)に引き揚げた。

 

8月下旬には上野原で長尾方・武田方は合戦を行ったが、

長尾景虎さんが旭山城を再興したのみで戦果がなく、

長尾景虎さんは9月に越後に引き上げた。

 

このころ京では将軍の足利義輝が三好長慶・松永久秀と対立して

近江の国高島郡朽木(滋賀県高島市)に逃れるという事件が起こった。

足利義輝は勢力回復のために、長尾景虎さんの上洛を熱望しており

長尾家と武田家の和睦を勧告するために御内書

(室町幕府の将軍が発給した私的な書状の形式を取った公文書で、

足利将軍家が創設した。形式的には差出人の名前が表記される私信と

同じものだが、将軍自身の花押・書判(署名 ・捺印)が押してあり、

将軍個人の私的性の強い命令書でありながら御教書に準ずるものとして

幕府の公式的な命令書と同じ法的拘束力があった。)

晴信は図々しいことに和睦の条件として信濃守護職を要求した。

 

一連の戦いで北信濃の武田氏勢力は拡大し、長尾家の有力な盟友であった

高梨氏は本拠地であった中野(長野盆地北部)を失って弱体化する、

このために長尾景虎さんは残る長尾方の北信濃の国衆の支配を強化して、

実質的な家臣化を進める事になる。

まあ仕方ないだろう、こう北信濃の国人衆が弱体化したんじゃ、

家臣化でもして守らなければならないのだろう。

 

つづく

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第2次川中島の戦いの別名は犀川の戦いとも呼ばれる。

1555年に行われた、長尾景虎さんと晴信は

200余日に及ぶ長期において対陣した。

 

 前年の1554年に南信濃の伊奈郡を制圧した晴信は

後北条氏と今川氏との間で同盟をむすんだ。

そして北関東で長尾景虎さんと対立する北条氏と共同で

長尾景虎さんの長尾氏と対決していく。

その上で長尾家の有力家臣の北条高広に反乱を起こさせた。

長尾景虎さんは北条高広を倒したが晴信の汚い調略に

長尾景虎さんはさぞかし怒っただろう。

 

1554年に中部信濃で小笠原氏と共に武田方に抵抗していた

二木氏が小笠原氏逃亡後に赦免を求めて降伏した。

 

1555年に信濃の国善光寺の国衆・栗田永寿が武田方に寝返り、

長野盆地の南半分が、竹田氏の勢力下に置かれ善光寺以北の

豪族達が圧迫される事態に陥った。

晴信は3月、長尾景虎さんは4月に善光寺奪回のために

長野盆地の北部に出陣した。栗田永寿と武田の援軍3000名は

栗田氏の旭山城(長野県長野市)に籠城した。

長尾景虎さんは旭山城に封じ込めるために前進拠点として

葛山城(長野県長野市)を築いた。

晴信は旭山城の後詰として川中島へと出陣し、犀川を挟んで両軍は対峙した。

月19日に長尾景虎さんは犀川を渡って戦いを仕掛けたが決着がつかず

200日に渡って対峙する事になる。

兵站線(本拠地と前線との間)の長い武田軍は兵糧の調達に苦しんだそうだ。

長尾景虎さんの越後勢の方でも動揺が起こっていたらしく、長尾景虎さんは

諸将に忠誠を誓う誓紙を求めている。

長尾軍に呼応して一向一揆への抑えとして加賀に出兵していた

朝倉宗滴が死んだこともあり北陸への憂いが生じたことにもあり

閏10月15日に今川義元の仲介で和睦が成立し両軍は撤退した。

 

和睦の条件として晴信は須田氏、井上氏、島津氏の旧領復帰を認め、

旭山城を破却する事になった。

これにより長尾氏の勢力は長野盆地の北半分(犀川以北)

確保することになった。

これが第2次川中島の合戦の全貌である。

第1次川中島の合戦の時はほんの30日だったが今度の合戦では

200日もかかりほぼ7倍弱の日数をかけても決着がつかなかった。

 

第2次川中島の戦いの後に長尾景虎さんと武田晴信の双方から

感状(分けりやすく言えば、大名が戦の後に部下の武将に出す

証書のようなもので、この証書に今回の戦における手柄が書いてあり

それに対して、大名がどこそこの土地を褒美として与えると

書いてある証書である。)

また領地安堵と言って自分の陣営に敵方から寝返ったものに戦の後に、

先祖代々の土地をそのまま自分の領地として治めていいと認められる事もある。

敵方に寝返る者の多くは、自分の領地を守りたいから寝返りをしたのである。

お信みたいに、領地安堵を認めないようなことを繰り返せば信用されなくなる!!

 

つづく

続いて長尾景虎(今まで上杉と書いていたが、若い時は上杉ではなく

長尾景虎と名乗っていたのをすっかり忘れていた。

天・地・人では上杉謙信とすでに名乗っていたし、2.3回で上杉謙信さんは

すぐ死んでしまったから、上杉謙信さんの若い時の事が全く

描かれてなかったから、若い時の名前が長尾景虎であった事などすっかり

忘れられていたが、これからはちゃんと若い時の名前を書く事にする。)

 

91日に長尾景虎さんは布施の戦いに勝利した長尾景虎さんと

越後勢は続いて荒砥城を落とした。

下の写真が荒砥城の写真である。




次に長尾景虎さんは93日に青柳城を攻めた。

 

これが青柳(あおやぎ)(じょう)の写真である。

どうもこの信州の戦いは山城ばかりを争って闘われたようだ。

よっぽど戦略的に重要な場所にあったのだろう。
 


青柳城に長尾景虎さんと越後勢がいた時に、

晴信が荒砥城を夜襲で落して退路を断とうとしたために、

長尾景虎さんはいったん八幡まで退いた。

 

今度は塩田城を攻撃したが、晴信が戦いに応じようとしなかったので

一定の成果をあげたとして、920日に長尾景虎さんと越後勢は

越後に引き上げた。

 

忘れていたがこの戦いには関東での戦いと違って、

長尾景虎さんにも利益がある。

このまま晴信が信濃一国を全部手に入れるような事になれば

晴信のことだ、次は越後を手に入れようとするだろうから、

これ以上は晴信に信濃で好きなようにさせていたのでは、

そのうち信濃を支配して越後と信濃が越後と直接、

国境を直接、接するようになることを越後の領主として

好むところではないだろうから、隣国の信濃の戦は

対岸の火事とは言えないだろう。

信濃での戦いに介入するしか道はない。

それが分かっているからこそ信濃の人々は長尾景虎さんに

救援要請をしたのである。

しかも長尾景虎さんは義の人で、義のために戦うのであって、

絶対に救援要請を受けて出陣しても見返りに

領地割譲を求めるような事は決してしない、という

安心感もあったのだろう。

 

 この戦いは信濃の川中島を含む長野盆地より南の千曲川沿いで

行われている。

長野盆地の大半を反武田方の諸豪族が支配していたから戦いは行われなかった。

これが第1次川中島の合戦の全貌である。

 

長尾景虎さんにとっては村上氏の旧領の回復こそならなかったものの

村上氏という防壁が崩れた事によって北信濃の豪族が一斉に

武田氏に靡く事を阻止する事に成功したし、武田氏にとっては

長野盆地への進出こそならなかったものの

小県はもちろんのこと村上氏の本領埴科郡を完全に掌握でき

双方にとって利益があったと言える。

 

1次合戦の後に叙位任官の御礼言上のために上洛して、

後奈良天皇に拝謁して、「私敵治罰の綸旨(これでりんじと読む)

(わかりやすく言えば、この綸旨の内容とは武田晴信が

私欲に駆られて信濃を侵略しているからこれを罰せよという

天皇の命令である。)を受けた。

これを受けたことにより、長尾景虎さんと戦う者は全て

朝敵とみなされるという事でもある。

これもひとえに長尾景虎さんが正義のために戦っているからだ!!

晴信のように女にうつつを抜かし、私利私欲のために

信濃を侵略するものとは大きな差だ!!

正義のために戦っているからこそ天皇の綸旨も得られるのである。

三国志で言ってみれば長尾景虎さんは正義の人と言われた、

劉備玄徳で、武田晴信は女好きで、私利私欲で他国を侵略する

曹操だ!!


日本の戦国時代の戦いで、これほどまでに、はっきりと

ふたつの違うタイプの武将がぶつかり合うのも珍しいケースだ。

ついでに言うと天皇の役回りは三国志で言うと

漢の最後の皇帝の献帝という所か、どちらも権力はないが

権威だけはあったところがよく似ている。

最もお信は足利幕府の最後の将軍の権威を利用する方法を

選んだようだが。

ちなみ足利幕府の最後の将軍はお信と対立した時には

西の毛利家の庇護を受けていた。

毛利輝元も利用価値があるからこそ庇護したのだが。

だいぶ脱線したから第2次川中島の戦いの方に戻りたいと思う。

 

つづく

上杉謙信さんと武田晴信との戦いでいちばん有名な戦いと言えば

川中島の戦いだろう。江戸時代からずっと、講談の

有名な演目として語られたから日本人で川中島の戦いを

知らない人はいないだろう。

 

川中島の戦いは1523年から1564年まで

足かけ12年もかけて延々と戦い続けられた長期戦である。

1次川中島の合戦は1523年に始まった。

村上義清は塩田城を失い、越後に逃げて上杉(この時期はまだ

若い時だから謙信という名前ではなく、景虎という名前であった。)

景虎さんに長尾家の縁戚につながる高梨氏を通して支援要請をした。

 

5月に北信濃の国人衆と支援の兵5000を率い村上義清は

晴信への反攻作戦を開始した。

八幡の戦い(現千曲市八幡地区武水別神社付近)で勝利。

晴信は一旦兵を引き、村上義清は葛尾城を奪回した。


7月、武田軍は再び北信濃に侵攻し、村上氏の諸城を次々と

落としていって、村上義清の立て籠る塩田城を攻めた。

村上義清は城を捨て、再び越後に逃れたのだった。


そして今度は救援要請をしたのである。

それを受けた景虎さん(若い時の名前だと何か調子が狂って

しまうが一応敬語を付けておこう。)

9月1日に自ら兵を率い晴信との戦いに入った。

越後と信濃の国境を越えた景虎さんと越後勢は、

布施の戦い(現長野市篠ノ井)で竹田軍の先鋒を破った。


下に川中島の戦いの第
1次合戦から第5次合戦までの

古戦場の位置とそれぞれの合戦がいつ始まったか

その年と、各地の城の位置と川の位置と川の名前と

山の位置と山の名前など関連地図を載せて置くから参考にして欲しい。




つづく

関ヶ原の戦いの以前の土佐は長宗我部元親が治めていた。

長宗我部元親は四国四ヶ国を勢力圏に治めて凄い勢力を張っていた。

しかし関ヶ原の戦いので負けた西軍についたため、

家康によって領地を没収されその後に土佐の藩主として入ったのが

山内一豊だ。こいつは小さくて、せこい男だ!!

ほとんどの人は知らないだろうが僕は知っている。

高知県高知市の桂浜(坂本龍馬さんの大きい銅像が雄大な

太平洋を眺めていることで有名なところだ。)坂本龍馬さんを

尊敬している人間なら必ず行っている。高知県の人は皆、

坂本龍馬さんを尊敬しているらしく、休日ともなるといつも

人でいっぱいになっている。そういう人々だけではなく、

大阪や京都にもあるから全国にもあるのだろうが、

京都にも龍馬会がある。

その龍馬会の人々の坂本龍馬さん愛は半端ではない!!

まず坂本家の家紋の入った着物を着て髪も坂本龍馬さんと

全く同じにして街を闊歩するのである。

冬も着物を着て歩くかは分からないが徹底している。

こういう人々も毎年恒例のように桂浜に行くだろうし、

そうではない普通の一般市民で坂本龍馬さんを尊敬している人は結構いる。


そこにはいつでも行けるわけではない。

桂浜の崖のいつもは閉まっている扉が開いている時にしか

車を持っていない僕には近づくこともできない。

車に乗っている人は、国道に車を停めて確かめる事も出来るだろう。

その桂浜のいつもは閉じている小さい扉が開いている時に行ける場所は、

桂浜の小さい扉から歩いて10分もかからない。

但し国道からかなり奥の林の中に分け入らないと、絶対に見つからない!!

そこには長宗我部元親の家臣が山内一豊に、一町分(これはそんなに広い

土地ではない!!)かなり昔に三田佳子主演の大河ドラマで、

命というドラマでヒロインの三田佳子の実家が青森県の大地主で

100町部の土地の持ち主という設定になっていた。

だから長宗我部元親の家臣が欲しいと言った土地は、

戦国大名の長宗我部元親にとって雀の涙くらいの土地である。


何と言っても四国4カ国を治めていたのだから。

山内一豊にとっては失っても痛くも痒くもない土地である!!

その土地を求めた長宗我部元親の家臣をどうしたか!!

その隠されたようにひっそりと建てられた石碑にはこう書かれている。

長宗我部元親の家臣を全員謀反の罪で斬首にしたそうだ!!

たった一町分の土地を惜しんでである。山内一豊に言いたいことがある。

一豊は土佐24万石の領主じゃないのか!!

そんな青森県の貧しい大地主の100分の一の土地を惜しんで、

長宗我部元親の家臣を謀反の罪で処刑するなんて本当に

汚い・小さい・せこい男だな!!他の戦国時代の武将のどこでもいないぞ!!

上杉景勝なら何と言っても、義の人上杉謙信さんが後継者に選んだ人だ、

人でなしの山内一豊とはまったく違う事をしただろうと思う。

例え元の領主が領地を持っているという煩わしさを気にせず

領地を与えてだろうと思う。


上杉謙信さんがなぜ義の人と呼ばれているか
1例を挙げておこう。

これによって上杉謙信さんが優れていて、いかに山内一豊が

人間的に劣っているか対比出来るからだ。

上杉謙信さんは何の利益にもならないのに、諏訪の人々の

救援要請に応じて武田晴信と戦う羽目になってしまった。

(信玄と言う名は晴信が上杉謙信さんに憧れて名前を変えたもので元々は

晴信という。)

それに上杉謙信さんは、一生不犯の掟を自らに

課して女性関係は全く無かったのに比べて、信玄は公家の娘を妻にして

3人の子供がいるのにも関わらず、まだそれにも満足出来ないのか、

諏訪頼重の1人娘の湖衣姫を側室にして、湖衣姫が結核になったら今度は

自分の親父が滅ぼした油川家の姫を側室にしてやりまくる!!

こんなドスケベな男が僧号を名乗るなんて考えただけでも身の毛がよだつ。

と、それに比べて上杉謙信さんは、自分には何の利益にもならない

信濃の有力豪族の救援要請によって、武田晴信との闘いの日々へと

突入する事になってしまった。

 

つづく

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